サンフランシスコのチャイナタウンを散策!本物の中国と珍品に出会えた話

サンフランシスコのチャイナタウンを散策!本物の中国と珍品に出会えた話

こんにちはkazです。

最近、サンフランシスコのチャイナタウンに興味を持つようになりました。
きっかけは、最近職場がチャイナタウンの近くになった事と、ある一冊の本との出会いでした。

それは、こちらの本です。

こちらの本、詳しくは別の機会で書評という形で述べたいと思います。

簡単に述べると、サンフランシスコは誰もが認める観光地である。なぜ、それ程までに多くの人を惹きつけるのか?

その答えは「本物」がそこにあるから。という感じです。

その中で、チャイナタウンの存在がありました。

元々、チャイナタウンは観光名所として作られてはいません。中国からの移民によって作られた、中国人の為のコミュニティです。当然、そこで暮らす人々によって、文化が脈々と受け継がれて行きました。そんな、中国の文化、アメリカに居ながらのぞいてみたいと思いませんか?

チャイナタウン玄関口、ドラゴンゲートへようこそ!

『チャイナタウンへようこそ!』

ここへきたら、ぜひドラゴンゲートをくぐりましょう。あなたをチャイナタウンへ迎え入れてくれます。

ガイドブックには必ずといいほど載っているドラゴンゲート。ぜひここで記念撮影を

ドラゴンゲートは、Bush streetとGrant streetにあります。ユニオンスクエアからも北東へ歩いて行ける距離にあります。

ゲートをくぐると、ズラリとお土産屋さんが立ち並んでいます。

Tシャツや帽子、マグネットなどサンフランシスコのロゴの入ったお土産が売っています。 どの店も同じようなデザインの物が売っています。

まとめ買いすると安くなったりするので、お配り用にいいかもしれません。

ドラゴンゲートをくぐってすぐに目につくのは、数々のきらびやかな置物、シャンデリアたち。

どんな方が買っていくのか気になります(笑)

ドラゴンゲートをくぐり、真っ直ぐ進み2つ目の交差点に行きましょう。ケーブルカーも走っているCalifornia streetに出ます。そこには、チャイナタウンを象徴する2つの建物があります。

この建物、左がシンチョン、右がシンファと呼ばれるチャイナタウンを象徴する建物です。建物の上にパゴダ(仏塔を意味する英語)が取りつけられ、サンフランシスコ大震災以後、中国様式の建物をイメージして作られました。

ここで歴史の時間です。

ここでちょっと、先ほどの本の内容から、この辺りの歴史について述べたいと思います。
ちょっと長いので、読み飛ばしてもらっても構いません。
でも、この辺りの歴史を知っているとチャイナタウンがもっと好きになれます。ぜひ、お付き合い下さい。

ゴールドラッシュと移住する中国人

1848年、カリフォルニアで金が発見されます。いわゆる、ゴールドラッシュの始まりです。その為、金を求めて沢山の人達がカリフォルニアに押せよせます。その頃、中国人の移住が始まります。

余談ですが、1848年にカリフォルニアに金が出たというニュースは、東海岸に伝わり、一攫千金を狙った人々が、西海岸に向かいます。1849年に入り沢山の人達が移動しました。彼らのことを49ers (フォティナイナーズ)と呼ばれました(日本語で、49年組?)。
ちなみにですが、サンフランシスコのアメリカンフットボールチームの名前は、SanFransisco 49ersです。ヘルメットの色は金です。

1850年代に入ると、中国広東省から約三万人の中国人がカリフォルニアに渡ります。彼らの一部は、サンフランシスコのポーツマススクエア付近に居を構え、クリーニング店や、レストランを経営して、ゴールドラッシュによって急増した住民にサービスを提供していました。ポーツマススクエアは、チャイナタウン発祥の地となります。

1860年代に入ると、大陸横断鉄道建設の為、さらに多くの中国人労働者がアメリカの西部に渡ります。

1868年、米清との間でバーリンゲーム条約が締結され、両国民の渡航と居住の自由が認められました。

1870年代、沢山の労働者が、カリフォルニアにおける農地開拓の担い手として集められました。サクラメント川沿いの広大な沼地を農地に変え、また、その農場で懸命に働きました。当時、労働者のほとんどは広東省出身の貧しい農民でした。彼らは家族を養う為に男性が出稼ぎに来ていたのです。

このため、チャイナタウンの言語は、中国語では無くて、広東語が主流でした。
私、大学生時代の第二言語で中国語を学んでいました。1ヶ月の短期ではありましたが、北京へ留学経験もあります(もう、15年ぐらい前の話ですが…)。簡単な中国語(普通語)を使って、お店にいたおばあちゃんに会話を試みましたが、通じませんでした(泣)

この頃、中国人労働者にとってとても過酷な時代を迎えます。彼らは危険な仕事を強いられたり、安い賃金しか支払われなかったり、その一方で、排除され、集団的な暴行を受けることも少なくありませんでした。さらに、大陸横断鉄道の完成によって、多くの中国人労働者が解雇されます。

1870代終わり、サンフランシスコに深刻な経済不況が訪れます。

サンフランシスコの中国人労働者は、非常に安い賃金で、靴製造工場や毛織物工場、タバコ工場で働きました。その為、競合する白人労働者による中国人排斥の風潮が高まります

カリフォルニアの中国人労働者たちは、働いていた農場や工場、住んでいた町から追い出され、彼らの住宅は放火されたり、暴行、虐待されるケースも少なくなかったそうです。こうした状況を受け、旅費を貯め帰国する者、東海岸に移る者もいました。しかし、経済的余裕のない貧しい者は、自らの身を守るため、サンフランシスコのチャイナタウンへ逃げ込むしかありませんでした。

彼らはかつてのように農場や工場で働く事が出来ず、チャイナタウン内において、クリーニング店や野菜の行商人、中国人が経営するレストランでの就業ぐらいしかありませんでした。境界線を超えてチャイナタウンの外に出た中国人は、常に白人から暴行を受ける危険にされされます。

彼らにとって、チャイナタウンは安心して暮らせる唯一の場所でした。その為、英語を習得する機会など皆無でした。今でも、英語を話さない中国人は沢山います。チャイナタウンに住んでいれば全てが事足りてしまうからでしょう。

中国人排斥法

1882年5月、アメリカ議会は中国人排斥法を通過させます。この法律によって、教師および留学生、商人、旅行者を除き、全ての中国人労働者およびその妻のアメリカ入国が10年間禁じられました。

1888年にスコット法が成立すると、一時帰国の中国人労働者に対して、再入国が禁止されました。

1892年、中国人排斥法は10年の延長

1902年、恒久的な措置とされました。

「 アメリカファースト!」って、当時の大統領は言ったか知りませんが、 歴史は繰り返されるのですね😢

サンフランシスコ大震災

1906年サンフランシスコを大震災が襲います。

この出来事は、チャイナタウンに大きな影響を及ぼし、今日のチャイナタウンの雛形を作り上げるきっかけとなりました。地震による影響は主に2つあります。

ひとつは、チャイナタウンの中国人を強制送還の危険から解放したことです。これは、震災によってサンフランシスコ市役所が崩壊、彼らの出生証明書類が焼失します。チャイナタウンの住民の多くは、自分がアメリカ生まれであると申告し、その申告は認められました。こうして、アメリに永住できるようになります。彼らの多くは、郷里の広東省に戻り、子供をもうけ、その子供達を連れて、アメリカに戻りました。チャイナタウンの子供の多くは商人の子でしたが、結果として、労働者の子供が増えました。

もうひとつの影響は、チャイナタウンの移転が中国商人たちの努力によって、阻止されたことです。当時から現在に至るまで、チャイナタウンは高級住宅地のノブヒルとダウンタウン(金融・経済の中心地)に挟まれている、市内の一等地にあります。市当局は、公衆衛生に悪影響を及ぼすとの理由で、1880年代から、何度も移転を迫ります。

大震災とその後の火災によって、市の中心部に位置したチャイナタウンはほぼ全焼します。

当時の市長であった、ユージーン・シュミッツは、チャイナタウンを元の場所に再建する事を許さないと明言します。この事は、サンフランシスコ市当局、エリート市民にとって、チャイナタウンを都心から追い払い、中国人を市のはずれに隔離する絶好のチャンスでした。彼らは、震災の5日後の4月23日、市長の要請の下、エリート白人市民によって構成された委員会が発足。チャイナタウンの移転先を検討、同市の南端であるハンターズポイントに移転させることを提案します。

この提案に対して、猛反対したのが、チャイナタウンの住民はもちろん、六大公司(サンフランシスコの中国人排斥政策に対して抗議活動を続けた団体)、在米清朝領事館、チャイナタウンに立地する大きな貿易会社のオーナー達、そして、チャイナタウンに不動産を所有する白人でした。

特に、貿易会社のオーナーは、チャイナタウンを移転するようなことになれば、自身の会社を隣のオークランド市、またはオレゴン州のポートランド、ワシントン州のシアトルに移すと宣言します。

当時、中国からの輸入品のほとんどはサンフランシスコ湾に陸揚げされ、チャイナタウンの商人によって、アメリカ全土にある中国商店に卸されていました。そのため、関税を含めて、チャイナタウンの商人が支払う税金の額は、サンフランシスコ市の税収の3分の1にも及んでいました。その為、中国貿易商の移転は、サンフランシスコ市にとって税収が大打撃を受けることは明白でした。

また、白人不動産所有者は「デュポンストリート環境改善クラブ」を組織し、元の場所で衛星状態の良いチャイナタウンを再建するよう市当局に要請します。

チャイナタウン移転をめぐる議論が続く中、チャイナタウンの有力商人や、実業家達は、店舗及び建物の再建をいち早く開始します。なかでも、Bank of Cantonの創業者で、銀行家のルック・ティン・エリと、商人のトン・ボン、ルー・ヒンの3人は、白人がイメージする中国建築を造り、チャイナタウンをきれいなオリエンタルシティとして再建することを目指します。震災以前のチャイナタウンの建物の多くは中国式の建築様式ではありませんでした。

彼らは、白人がイメージするような、中国式建築を造るべく、中国人大工を使わず、アメリカ人建築家のペターソン・ロス(Paterson Ross)とエンジニアのA・W・バーグレン(A.W.Burgren)に建物のデザインを依頼します。最初に完成した、建物はシンチョンと、シンファと呼ばれる2つの大型小売店でした。

これらの建物は、白人観光客の間で高い人気となり、その後のチャイナタウン内で建設された建物の多くに影響を与え、現在のチャイナタウンの礎を築きました。

珍品見学ツアー

先ほどのドラゴンゲートは、Grant street上にあります。
この、ストリートはチャイナタウンの目抜き通りで、観光客向けのお土産屋さんがとても多くあります。

このストリートから、西に行ってみましょう。Stockton streetに出るかと思います。
こちらのストリート沿いには、地元の人が通う雑貨、八百屋、食料品、飲茶屋さんなどの小さな商店が並びます。本物のチャイナタウンを感じたいならば、この通りで、地元の人になったつもりで買い物をしてみるのもいいかもしれません。

商品名は中国語で書かれていますね。
日本の方であれば、漢字からなんとなくわかるかな?

漢字の文化のない外国の方からすると、こういうところに中国を感じるのでしょう。

これぞ珍品⁉️

上記の写真は乾物屋さんで撮ったものです。

右の写真の下の段にあるのは乾燥させたアワビやホタテです。その上にある、ふ菓子のようなもの、すみません、分かりません😅
ただ、値段がものすごく高いのはお分かりいただけますでしょうか?
$388/LB

1LBは約450g、$1=106円(9月8日2019年現在)、つまり、日本円にすると¥41,128/450gになります😱

漢方薬の材料にでもなるのでしょうか?
とてもじゃないですが買えません、、、まあ、買ったところで何に使えば良いのか、、、

続いてはこちら! 乾燥ナマコです。

ナマコは中華料理では高級な食材として使われています。また、滋養強壮に良いって聞いたことがあります。
では、早速購入して、、、、ってなりませんでした😭

ちなみにこちら、お値段は$45/LBと先程に比べ、お求めやすい価格となっています。

勇気があって、元気を手に入れたい方、ぜひご検討のほどを😁

こちらは八百屋さんで撮ったものです。見たことのないものを発見しました。
商品名に「果」の文字があることから、果物であることが分かりますね(お隣はオレンジです)。

興味本意でこちらを一個購入し、後日、食してみました。

断面はこんな感じです。
ドラゴンフルーツでしょうか?私が知っている、ドラゴンフルーツは周りがピンクだったような気がしますが、、、

食感は、白桃のような、洋梨のようなトロッとした感じです。そこに、黒ごま大のたねがプチっプチっと心地よいです。
味は、甘さ控えめな洋梨のようでた。
見た目によらず、とても美味しかったです。また、行く機会があればぜひ買って行きたいですね。